
敢えて勇なれば、すなわち殺。敢えてせざるに勇なれば、すなわち活
中国の思想家・老子の言葉。
無闇に行動する勇気は死(滅亡)を招き、行動しないことを貫く勇気は生(保全)をもたらす。
衝動的に動かず、静観して時を待つことの重要性を説いた言葉。
連日のように最高値を更新する株価。
時として静観することも肝要ですかね。。。

イタリアの世界遺産アマルフィ海岸。
「世界一美しい海岸線」といわれ、人気のリゾート地でもあります。
いまはイタリアの一都市であるアマルフィですが、かつては独立した国でありました。
かつてのイタリアは都市国家といい、1つの都市が1つの国家となっていました。たと以前の記事で書きましたが、
アマルフィもそんな都市国家の一つでした。
アマルフィ公国といい9世紀から12世紀にかけて存在した国家で、地中海を主軸にした海洋貿易で栄えました。
アマルフィは切り立った断崖に囲まれた天然の要塞であり、地中海の東西を結ぶ航路の要衝でもありました。
軍事より貿易重視で商業が主体で、アラブや北アフリカのイスラーム世界とも良好な関係を築きました。
アマルフィ商人たちは地中海全域に貿易ネットワーク拠点を持ち、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)をはじめとするキリスト教圏とアラビア半島をはじめとするイスラーム圏を結ぶ仲介者として機能しました。
絹、香辛料、宝石、金銀、そして奴隷(当時は一般的でした)などを主に取り扱っていました。
アマルフィ公国の最大の功績は、「アマルフィ海法」と呼ばれる海洋商業法の整備でしょう。
海上貿易・船舶事故・保険・責任の所在などを体系化し、以後、地中海世界で数百年にわたり標準ルールとして適用されました。
現代の海商法・保険制度の原型とされる先進的なルールでした。
また高度な航海・造船技術の発達により十字軍遠征時にも、物資や人の輸送など、アマルフィ商人たちは重要な役割を果たしました。
そんなアマルフィ公国も1131年にはシチリア王国に、1135年と1137年にはピサ共和国の攻撃を受け、都市や艦隊が破壊され衰退していきました。
現在はイタリアの一部であるシチリア島、そしてイタリアの一都市であるピサも、王国だった時期もあるわけです。
ブッダが言った。
「この世は諸行無常である」と。
すべては儚く移ろいゆくもの。
人や動植物の命だけでなく、国というものの命も永遠ではないのでしょう。

アンコール帝国(クメール帝国)は、9世紀から15世紀にかけて現在のカンボジアを中心に栄えた、東南アジア史上最大級の王朝になります。
主要な産業は農業であり、モンスーンの雨を貯め込む人工貯水池や運河網を整備し、安定した稲作により大人口を支えました。
豊富な食糧により兵士など非農業人口を養い、強力な軍事力を有していました。
また、農閑期の労働人口を支えるために、寺院建設などの公共工事も頻繁に行われました。
世界遺産のアンコール・ワット寺院は有名ですね。
いつの時代も隣国同士は仲良くできないもの。
アンコール帝国も隣国のチャンパ王国(現在のベトナムの一部)とアユタヤ王国(現在のタイの一部)などとの争いが絶えませんでした。
最終的にはアユタヤ王国に侵攻され、滅ぼされてしまいます。
いくつもの国が生まれては滅ぶ。
歴史とはその繰り返しですね。

聖戦の名のもとに異教徒への容赦ない殺戮が行われた十字軍遠征。
第1回の遠征だけでも、10万人を超えるイスラム教徒が虐殺されたともいわれています。
イスラム教徒の歴史と記憶の中に、キリスト教徒への憎悪として深く刻まれた「十字軍遠征」。
十字軍は過去の出来事ですが、残念ながら現代においても虐殺や戦争は至るところで起きています。
何故、わたしたちは同じ過ちを繰り返すのでしょうか?
わたしたちは過去の出来事からどれくらい学んでいるのでしょうか?
今一度、過去の出来事を振り返ってみたいと思います。
1095~1291年、7回以上にわたって行われた軍事遠征です。
イスラム教徒の手に渡ったキリスト教徒の聖地エルサレムを奪還することが目的でした。
フランスやドイツ、イタリアなどヨーロッパのキリスト教諸国が聖戦の名のもとにイスラム教徒に戦いを挑みました。
しかし、そこで繰り広げられたのは聖戦とは名ばかりの殺戮と強奪行為でした。
遠征の旅費を賄うために、ヨーロッパのキリスト教徒たちはまずユダヤ人集落に向かい、狂ったかのように略奪と殺人を犯しました。
そして、その後のイスラム教徒との戦いは凄惨を極めました。
イスラム教徒の捕虜を拷問・虐殺し、生首を柱の上にさらしました。
相手の持ち物を奪うために殺し、死体をのこぎりで切り、腹の中に隠された金貨まで自分のものにしました。
町に入って根こそぎ略奪し、老若男女もかまわず殺戮し、食べ物が見つからなくなれは、足元に散らばっている死体の肉を切り刻んで食べました。
エルサレムの大通りや広場などには、人間の頭や腕や足がうず高く積み上げられました。
神殿や回廊は血の海となったそうです。
それも異教徒との戦いという一応の大義名分を持っていたのは1回目の遠征のみで、2回目以降は目的もあやふやなまま、ただただ殺戮・強奪のみを繰り返すことになりました。